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東京高等裁判所 昭和57年(行ケ)275号 判決

原告

キヤノン株式会社

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和52年審判第4912号事件について昭和57年10月1日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告

主文同旨の判決

2  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和47年9月22日、名称を「極近接撮影用ズームレンズ系」とする発明(以下「本願発明」という。)について特許出願(昭和47年特許願第95308号)をしたところ、昭和52年1月14日拒絶査定があつたので、同年4月14日審判を請求し、同年審判第4912号事件として審理された結果、昭和57年10月1日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は同年11月29日原告に送達された。

2  本願発明の要旨

前方より正の合焦系、負の変倍系、正の補正系を備えたズーム・レンズ系に於いて、極近接撮影時には前記3系をその背後に設けられた結像系に対して一体的に前方へ変位させる手段を設けた事を特徴とする極近接撮影用ズーム・レンズ系。

(別紙図面(1)参照)

3  審決の理由の要点

本願発明の要旨は前項のとおりと認める。

これに対して、「カメラ毎日」1969年8月号第237頁、第238頁(以下、「引用例」という。)には、ボオリユー4008ZM、4008Sの紹介記事として、「装着しているレンズはアンジエニユー8~64ミリF1.8、8倍ズーム…………。」及び「レンズ関係でのもうひとつの特徴は超接写ができる点で、最小の撮影範囲は21×15.5ミリ、レンズ前枠と被写体との間隔はたつた1ミリしかなくなる。普通のズームレンズではこれだけの接写になると、当然レンズ性能が低下するが、アンジエニユーレンズは基部に接写用のレバーがある。これを半回転させて下側に動かすと、ズームレンズのズーム部とマスター部の間隔が接近して、接写性能が高まるように設計されている。」と記載されている。

そこで、本願発明(以下、本項において「前者」という。)と引用例に記載されたもの(以下、本項において「後者」という。)とを比較すると、両者はマクロ(極近接)撮影を可能としたズームレンズ系で、マクロ撮影時にズーム系と結像系(マスター部)の間隔を変化させて行う点で一致し、(1)前者は、前方より正の合焦系、負の変倍系、正の補正系を備えたズームレンズ系と特定しているのに対し、後者には、ズームレンズ系の構成が記載されていない点、(2)前者は、マクロ撮影時には、ズーム部をその背後に設けられた結像系に対して一体的に前方へ変位させる手段を設けて行うのに対して、後者は、ズーム部(系)とマスター部(結像系)の間隔が接近してマクロ撮影を行う点で一応相違している。

次に、上記相違点について検討する。(1)の点は、前者の明細書及び第1図、第2図に従来例として記載されているように、前方から正の合焦系、負の変倍系、正の補正系から構成されるズームレンズ系において、マクロ撮影することは公知のものであり、ズームレンズ系を特定した点に格別の特徴を見いだすことはできない。(2)の点は、前者はズーム部を前方に一体的に繰り出してマクロ撮影するのに対し、後者は、ズーム部と結像系を近接させて行つている。すなわち、両者はいずれもズーム部と結像系の間の間隔を変化させてマクロ撮影の合焦を行うものである。そして、レンズ系の焦点合わせとして従来から種々の方式があり、いずれにしても光学的に共役関係にある物体距離と結像距離の関係をレンズ系の焦点距離(パワー)を変えて焦点調節を行うことが周知の技術手段であることから、後者のようにズーム部と結像系を近接させて焦点合わせを行う代わりに前者のようにズーム部を結像系に対して一体的に前方に移動させて行うことは当業者が適宜選択できる設計上の事項にしかすぎないものと認める。

なお、請求人(原告)はその請求の理由で、引用例のものは接写のためにリレーレンズ(結像系)を接近させる余裕を設定する必要があり、その結果レンズの全長の増大を引き起こすのに対し、本願発明は接写(マクロ)時のみ、前方へ繰り出す構成なので余分の空間を含めて設計する必要がなくなることを主張しているが、本願発明のものは通常被写体に対しては全長が短くなるが、マクロ時にはズーム部を繰り出さねばならず、全体としてレンズ全長を短縮し得る効果があるものとは認めることができない。

したがつて、本願発明は、引用例に記載されたものに基づいて当業者が容易に発明することができたものと認められ、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決の取消事由

1 引用例に審決が認定したとおりの記載があること、本願発明と引用例記載のものとの間に審決が認定したとおりの一致点及び相違点が存することは、いずれも認める。しかし、審決は、本願発明と引用例記載のものとの間の相違点(2)は当業者が適宜選択できる設計上の事項にすぎないと誤つて認定し、相違点(2)において本願発明が顕著な作用効果を奏することを看過し、ひいて本願発明の進歩性を誤つて否定する判断をしたものであるから、違法であつて取り消されるべきである。

2 審決は、相違点(2)について、①「レンズ系の焦点合わせとして従来から種々の方式がある」こと、②「光学的に共役関係にある物体距離と結像距離の関係をレンズ系の焦点距離(パワー)を変えて焦点調節を行うことが周知の技術手段である」ことの2点を理由として、③「後者(引用例記載のもの)のようにズーム部と結像系を近接させて焦点合わせを行う代わりに前者(本願発明)のようにズーム部を結像系に対して一体的に前方に移動させて行うことは当業者が適宜選択できる設計上の事項にしかすぎない」と判断した。

右①、②の理由は、いずれも抽象的な一般論であつて、具体的な内容がない。右①、②の理由が、どのような撮影光学系であれ、焦点合わせをするには、当該光学系中のどこかのレンズ系を移動させて焦点合わせを行うものであるという趣旨であつても、このことは、一部の例外(すなわち、焦点合わせの際、レンズ系の任意のレンズ又は複数個のレンズを動かせば、常に通常撮影においても極近接撮影においても合焦ができるというわけではない。)を除き、ほとんどの撮影光学系に対して当てはまる上位概念としての技術的思想をとらえてそれを従来技術であるということに帰着するのであり、それより下位概念としての本願発明及び引用例記載のものの各技術手段の間の相違点を論じるに際しての理由とはなり得ない。

3 本願発明は、通常撮影とマクロ撮影とが可能な極近接撮影用ズーム・レンズ系において、通常撮影時には全長が短くなるズーム・レンズ系を提供することを主目的とし、そのため、マクロ撮影時にはズーム部がマスター部に対して前方に繰り出されるが、通常撮影時には全長が短くなる構成を採用し、この構成に基づいて使用頻度が高い通常撮影時にコンパクト化の利点が得られるという作用効果を奏する。

すなわち、本願発明においては、①通常撮影時には正の合焦系F'、負の変倍系V'、正の補正系C'から成るズーム部が、補助光学系A'、フアインダー用光分割器S1、結像系R、測光用光分割器S2から成るマスター部と近接しており、②マクロ撮影時に、右ズーム部が繰出し手段により右マスター部に対して前方に繰り出されるという構成を採用した。この①、②の構成により、ズーム・レンズ系の全長が通常撮影時において短くなり、マクロ撮影時においてのみ通常撮影時に比べて長くなつて、通常撮影時にはズーム・レンズ系の全長が短縮されて取り扱いやすいコンパクト化の利点が得られる(別紙図面(2)の第1図参照)。一般にマクロ撮影は回数の頻度が低く、通常撮影の方がはるかに回数の頻度が高いのであるから、マクロ撮影可能なズーム・レンズ系であつて、通常撮影時にコンパクト化の利点が得られることの効果は顕著である。

これに対し、引用例記載のものも極近接撮影用ズーム・レンズ系であつて、前方にズーム部を有しその背後にマスター部を有するが、①通常撮影時には、ズーム部はマスター部と所要の間隔をおいて隔てられており、②マクロ撮影時には、マスター部がその前方にあるズーム部に向かつて、右間隔を詰めるように繰り出されるという構成が採用されている(別紙図面(2)の第2図参照)。引用例記載のものの右①、②の構成からみると、ズーム・レンズ系の全長は、通常撮影時においてもズーム部とマスター部との間に所要の間隔を持つており、そこに死空間を有している。そしてマクロ撮影時には、マスター部が右間隔を詰めるようにズーム部に向かつて移動するだけで、全長に変化がない。したがつて、引用例記載のものにおいては、通常撮影時とマクロ撮影時とを問わずズーム・レンズ系の全長が一定であり、マクロ撮影時に比べて通常撮影時におけるコンパクト化の利点を得ることができない。

審決は、本願発明と引用例記載のものとの間に相違点(2)が存することを認め、「前者(本願発明)はズーム部を前方に一体的に繰り出してマクロ撮影するのに対し、後者(引用例記載のもの)は、ズーム部と結像系を近接させて行つている。」と認定しながら、本願発明のズーム・レンズ系は「マクロ時にはズーム部を繰り出さねばならず、全体としてレンズ全長を短縮し得る効果があるものとは認めることができない。」としたが、誤りである。

被告は、通常撮影時のコンパクト化という作用効果を奏する本願発明の構成は他面において、鏡胴の構造が複雑で強固にしにくいという欠点を有すると主張する。しかし、被告主張のように本願発明に係るズーム・レンズ系が引用例記載のものに比べて鏡胴の構造が複雑になるという必然性は存せず、そのような欠点も存しないから、被告の右主張は理由がない。仮に被告主張の欠点が本願発明に係るズーム・レンズ系に存するとしても、そのことは本願発明の実施を困難ならしめるものでないし、本願発明の目的、構成及び作用効果とは関係ないことである。

第3請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3の事実は認める。

2  同4は争う。審決の認定、判断は正当であり、審決には原告主張の違法はない。

1 ズーム・レンズ系においては一般のレンズ系と同様、被写体が極接近した場合にその焦点調節機能だけでは焦点合わせをすることができないために、合焦系以外の一部レンズ群を光軸方向に移動させて行う焦点調節のための機構を設けることがマクロ調節機構として本件出願前周知であつた。

引用例に審決が認定したとおりの記載があり、引用例記載のものが、請求の原因4 3における①、②の構成を採用していることは認めるが、引用例記載のものにおけるズーム・レンズ系も、本願発明におけるズーム・レンズ系も、被写体が極接近した場合における焦点合わせであるマクロ調節を、マスター部とズーム部との間隔を変えることによりズーム・レンズ系全体の焦点距離(パワー)を変化させて行つている。これを、引用例記載のものでは、ズーム部を固定しマスター部を接近させて行うのに対し、本願発明においては、マスター部を固定しズーム部を繰り出して行うこととしたのである。このため、引用例記載のものは通常撮影時に死空間を必要とするのに対し、本願発明ではマクロ撮影時に死空間を生じる。

ところで、ズーム部とマスター部の配列は周知であり、その配列中の任意のレンズ又はレンズ群を動かせば、通常撮影においても極近接撮影においても焦点合わせができることは、撮影物体と結像の焦点が合つている時に、レンズの焦点距離、撮影物体とレンズとの間の距離(a)、レンズと結像面との間の距離(b)相互間に成立する一般式、物体と結像との大きさの比である縮小率、拡大率と右a・bとの間に成立する一般式及び複数のレンズの各焦点距離、レンズ間の距離と複数のレンズの合焦点距離相互間に成立する一般式から明白なことである。したがつて、ズーム・レンズ系の極近接撮影のマクロ調節において、本願発明におけるようにマスター部を固定してズーム部を動かすか、引用例記載のものにおけるようにズーム部を固定してマスター部を動かすか、あるいはまた双方を動かすか(いずれの場合もどこかに死空間が生じるから、右のいずれを採用するかは、死空間をどのような状態でどこに発生させるかということになる。)は、使用目的に沿つた選択の問題である。乙第11号証(昭和45年特許出願公告第12715号公報)、第12号証(米国特許第3,659,921号明細書)、第13号証(昭和39年特許出願公告第8864号公報)は、右の点が単なる選択の問題であることを証明するものである。

したがつて、本願発明においてマスター部を固定しズーム部を繰り出してマクロ調節を行うという構成を採用したことは、当業者にとつて適宜選択できる設計上の事項にすぎないというべきである。

2 原告主張の作用効果について述べるに、一般に、使用される光学機器が本願発明のように手持ち式の撮影機であるような場合、そのレンズ系をコンパクトに設計することは基本的に重要な事項である。しかし、右レンズ系は実際に光学機器に組み込まれて使用されるものであり、その鏡胴などの機械的な面をも考慮して設計されているものであつて、光学機器全体としてその効果を評価しなければならない。

ズーム・レンズ系の鏡胴は一般に、ズーミング操作を行うために、第2群変倍系V、第3群補正系Cをある一定の移動関係に応じてそれぞれ光軸方向に移動させる。そのため、固定鏡胴の回りにカム環が存在し、その内側を変倍系V、補正系Cのレンズ保持枠がそれぞれ摺動するように構成されているとともに、マクロ撮影を行う関係で、ズーム・レンズ系のズーミング操作とは別にマクロ調節のための移動群(マスター部)を一定の移動関係に応じて移動させるためにカム環と保持枠を必要とする。また、合焦系Fをフオーカシングするためのヘリコイド機構を有しており、複雑な鏡胴機構となる。

引用例記載のものは、ズーム・レンズ系の全長が一定であるのに対し、本願発明においては、ズーム部をマスター部から前方に繰り出してマクロ調節を行うのであつて、マクロ調節時には、ズーム・レンズ系の全長が伸長する。したがつて、引用例記載のものの固定鏡胴は一定の長さであればよく、その中でマクロ調節のためマスター部を移動させる機構を設ければよいのに対し、本願発明においては、ズーミング機構とマクロ調節機構が重なつて、その操作環を含めて考えると、相当複雑な機構となる。このように、原告が主張する通常撮影時のコンパクト化という作用効果を奏する本願発明の構成は、他面において、鏡胴の構造が複雑で強固にしにくいという欠点を有することになる。

したがつて、本願発明は、引用例記載のものと比べて、特段の作用効果を奏するものということはできない。

第4証拠関係

証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。

2  そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。

1 成立に争いのない甲第2号証の2(本願発明の昭和47年11月20日付け手続補正書)によると、本願発明は、極近接撮影時にズーミングが可能な極近接撮影用ズーム・レンズ系に関するものであり、前記本願発明の要旨における構成を採用したことにより、「テレ又は及びワイド時のみズーム部3系を繰出せば極近接撮影のズーミング操作を許容しうることとなり、しかも通常撮影時の全長が長くななることもなく、更に前玉径の増大を防ぐこともできる等の」(本願明細書第11頁第6行ないし第10行)作用効果を奏するものであることが認められる。

2(1) 原告は、本願発明と引用例記載のものとの間に審決が認定したとおりの一致点及び相違点が存することを認めた上、審決は、本願発明と引用例記載のものとの間の相違点(2)について、当業者が適宜選択できる設計上の事項にすぎないと誤つて認定し、また、右相違点に基づいて本願発明が奏する顕著な作用効果を看過、誤認したと主張する。

(2) まず、ズーム・レンズ系においては、被写体が極接近した場合にその焦点調節機能だけでは焦点合わせをすることができないために、一部レンズ群を光軸方向に移動させて行う焦点調節のための機構、すなわちマクロ調節機構が必要であることは技術上自明のことである。そして、引用例記載のものも極近接撮影用ズーム・レンズ系であつて、そのマクロ調節が、ズーム部を固定しマスター部をズーム部に接近させて行われるのに対し、本願発明におけるマクロ調節が、マスター部を固定しズーム部を繰り出して行われることについては、当事者間に争いがない。

(3) 本願発明と引用例記載のものとの間のこの相違点(審決挙示の相違点(2)も実質上この点をいうものである。)について、より具体的に検討する。

これをまず本願明細書の記載についてみると、前掲甲第2号証の2によれば、本願明細書に、「図(本判決別紙図面(1)の第3図)に於いてF'は正の合焦系、V'は負の変倍系、C'は正の補正系、A'は補助光学系、S1、R(「R1」とあるのは「R」の誤記と認める。)、S2は前述の光学系に同様のもの(従来技術についての図面である第1図(本判決別紙図面(1)の第1図)記載のフアインダー用光分割器S1、結像系R、測光用光分割器S2に対応。)である。これら光学系の内A1、S1、R(「R1」とあるのは「R」の誤記と認める。)、S2は通常撮影時、マクロ撮影時のいかなる撮影時に於いても固定されている。前方3系F'、V'、C'はその背後の固定された結像系に対してマクロ撮影時一体的に光軸方向に変位可能に保持手段と作動的に結合する様配され、且つ通常ズーミング撮影時には該三系を一体的に保持する手段に対して変倍系V'、補正系C'が独立的に変位可能に配されている。」(第5頁第7行ないし第6頁第2行)と記載されていることが認められ、この記載によると、本願発明におけるズーム部は正の合焦系F'、負の変倍系V'、正の補正系C'から成つており、通常撮影時においては補助光学系A'、フアインダー用光分割器S1、結像系R、測光用光分割器S2から成るマスター部と近接しているのに対し、マクロ撮影時には、右マスター部に対して前方に繰り出されるように構成されているものということができる。

これに対して、引用例に審決が認定したとおりの記載があること、及び引用例記載のものが原告主張のように、①通常撮影時には、ズーム部はマスター部と所要の間隔をおいて隔てられており、②マクロ撮影時には、マスター部がその前方にあるズーム部に向つて、右間隔を詰めるように繰り出されるという具体的構成を採つていることについては当事者間に争いがない。

(4) 本願発明と引用例記載のものとの間の前記相違点(2)について、被告は、ズーム・レンズ系の極近接撮影のマクロ調節において、本願発明におけるようにマスター部を固定してズーム部を動かすか、引用例記載のものにおけるようにズーム部を固定してマスター部を動かすか、あるいはまた双方を動かすについては、使用目的に沿つた選択の問題である旨主張する。

なるほど、被告主張のとおり、ズーム部とマスター部の配列は周知であり、その配列中の任意のレンズ又はレンズ群を動かせば、通常撮影においても極近接撮影においても焦点合わせができることは、撮影物体と結像の焦点が合つている時に、レンズの焦点距離、撮影物体とレンズとの間の距離(a)、レンズと結像面との間の距離(b)相互間に成立する一般式、物体と結像との大きさの比である縮小率、拡大率と右a・bとの間に成立する一般式及び複数のレンズの各焦点距離、レンズ間の距離と複数のレンズの合焦点距離相互間に成立する一般式から明白なことであり、したがつて、レンズ群の中から所望のレンズ群を選択して移動させることは、理論上では容易に構想し得るところであるということができる。しかしながら、引用例記載のものにおけるような、ズーム部を固定してマスター部を移動させ両者を近接させて焦点合わせを行う構成を、本願発明におけるような、マスター部を固定してズーム部を移動させ両者を離隔させて焦点合わせを行う構成に置き換えると、固定する部分と移動する部分とが全く入れ替わるのであり、かつ、ズーム部とマスター部の間隔が近接することになるか、離隔することになるかの点で全く逆の構成となるのである。このことに照らすと、右にみたような構成の置換えは、理論上の構想の容易性はともかくとして、当業者にとつて容易になし得る設計上の事項であるとは、到底いい難い。

(5) なお、被告は、ズーム・レンズ系の極近接撮影のマクロ調節の構成のいずれを採用するかの点は、単なる選択の問題であることを立証するものとして、乙第11号証(昭和45年特許出願公告第12715号公報)、第12号証(米国特許第3,659,921号明細書)、第13号証(昭和39年特許出願公告第8864号公報)を提出し、右各乙号証の成立は当事者間に争いがないところである。

それらに記載されている技術内容についてみるに、まず乙第11号証には、ズーム・レンズ系において、通常のフオーカシング領域の近距離被写体に焦点合わせをするための方式についての記載があるが、マクロ調節についての記載がないことが明らかである。

また、乙第12号証には、マクロ撮影が可能なズーム・レンズ系についての記載があるが、その構成は、マクロ撮影時に、ズーム部の合焦レンズFを最先端に移動させ、マスター部の前群レンズL1を像面に向かつて移動させるというものであること(別紙図面(3)参照)が明らかであるから、乙第12号証記載の発明におけるズーム・レンズ系は、本願発明における構成のようにマスター部全部を固定するものではない。

次に、乙第13号証には、極近接撮影が可能な「ズームレンズ組込みテレビカメラに於ける焦点調節装置」について記載され、この装置は、フオーカシングレンズ1、ズーミングレンズ2及び結像レンズ3から成るズーム・レンズ、光路をコ字形に屈曲させるように配置したプリズム又は反射鏡4、5、この反射鏡及びズーム・レンズ系に対して設け、光電面7を有する撮像管6、撮像管6をズーム・レンズ系に対して進退調節し得るようにするために撮像管6を取り付けた、光軸方向に摺動自在な保持台10などから構成されていることが認められる(別紙図面(4)参照)。右ズーム・レンズのうちのフオーカシングレンズ1とズーミングレンズ2とは、全体として本願発明におけるズーム部に相当し、結像レンズ3は本願発明におけるマスター部に相当し、撮影管6の光電面7は通常のカメラにおけるフイルム面に相当するものということができるが、同号証によれば、右装置は、無限遠からある程度の距離までの焦点調節はズーム・レンズのうちのフオーカシングレンズ1を前進させて被写体距離を近距離に移して行い、次いで、「フオーカシングレンズ1を前進位置に停止したまま保持台10をレンズ系から後退して極近接撮影の状態となる。」(第2頁右欄第2行ないし第4行)のであり、同号証記載の発明においては、極近接撮影時に、撮像管6の光電面7(フイルム面)が後方に移動することによつてマクロ調節を行うという構成となつているのである。したがつて、同号証においては、本願発明におけるように、マスター部を固定してズーム部を移動させる構成は記載されていない。

以上によれば、乙第11ないし第13号証をもつてしても、被告主張の前記の点が単なる選択の問題であるということはできない。

3  次に、本願発明の作用効果について判断する。

本願発明においては、前記1で判示したような作用効果、すなわち、通常撮影時に全長が長くなることがないという作用効果を奏するものというべきであるところ、通常撮影時の方が、極近接撮影時に比べて回数の頻度が高いことは自明であるから、本願発明においては、コンパクト化の利点が得られるという顕著な作用効果を奏するものということができる。被告は、引用例記載のものの固定鏡胴は一定の長さであればよいのに対し、本願発明においては、ズーミング機構とマクロ調節機構が重なるなど、相当複雑な機構となるから、右にみたような通常撮影時のコンパクト化という作用効果を奏する本願発明の構成は、他面において、鏡胴の構造が複雑で強固にしにくいという欠点を有する旨主張する。

しかしながら、通常撮影時のコンパクト化という点と、鏡胴の構造が複雑で強固にしにくいという点とは、異質の長所、短所である。そして、このように発明に結び付いた異質の長所、短所が存する場合に、長所が軽微なもので、他方短所が重大なものであるなどの特段の事情が存するときはともかくとして、そうでない以上、発明に短所が存するからといつて、優れた長所を発明の顕著な作用効果と評価することに何らの支障もないものというべきである。本件の場合、被告主張の、鏡胴の構造が複雑で強固にしにくいという欠点に比し、通常撮影時のコンパクト化という長所が軽微なものであつて、右にみた特段の事情が存することを認めるに足りる証拠はない以上、仮に本願発明において、鏡胴の構造が複雑で強固にしにくいという欠点が存するとしても、本願発明においては、前記コンパクト化の利点をもつて顕著な作用効果であると認めることには、何ら差し支えはない。

4  以上によると、審決は、本願発明と引用例記載のものとの間の相違点(2)について、当業者が適宜選択できる設計上の事項にすぎないものと誤つて認定、判断し、かつ本願発明が奏する顕著な作用効果を看過、誤認し、ひいて本願発明の進歩性を誤つて否定したものであるから、違法であつて取消しを免れない。

3  よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は正当としてこれを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用して主文のとおり判決する。

(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

〈以下省略〉

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